鋭きも鈍きも・・・
江戸時代後期に広瀬淡窓という儒学者が大分県日田に咸宜園(かんぎえん)と言う私塾を開いていました。咸宜とは“ことごとく よろしく”と読み、学問を志す者ならば身分を問わず平等に受け入れるという意味だそうです。全国から集まった塾生は4千人とも言われその中には蘭学者の高野長英、明治陸軍の大村益次郎、総理大臣の清浦圭吾、写真家上野彦馬など有為の人材を多数を輩出しました。
広瀬が塾生訓戒のために作ったいろは歌の有名な一句に
鋭きも鈍きも共に捨てがたし 錐(きり)と槌(つち)とに使い分けなば
というのがあります。
教わる側の塾生は理解力が高い者もいれば劣る者もいるし、得意分野が多い者も少ない者も混在するが、広瀬は能力の劣る者を切り捨てるということをせずに、それぞれに必ず社会的役割が天から与えられているので、人間は鋭い錐という役割を果たすものもいれば鈍い槌の役割を果たすものもいるので適材適所を重視したといいます。いくら鋭くても錐は槌の代わりはできないし、逆もまた同じです。
日本人はどうもダメなものは一切合切ダメで、いいものはみんないいと極端に色分けしがちなような気がします。山本五十六連合艦隊司令長官は先見の明があり大変優秀な海軍軍人でした。アメリカとの戦争を始める10数年も前の昭和の初め頃には、それまで世界の海軍の常識だった大艦巨砲主義を排し、航空優先を唱えました。要するに大きい軍艦に大きい大砲を積んで砲撃によって相手を撃滅する戦争はもう時代遅れで飛行機の質量こそが戦争の帰趨を決めるものだとして、昭和12年着工の巨大戦艦大和・武蔵建造に猛反対し海軍航空隊の整備に力を注ぎました。そしてその後のアメリカとの戦争はまさにその通りの展開になりました。
山本五十六の致命的な大失敗の一つに航空優先に固執するあまり使いようによっては強大な打撃力を持つ戦艦を軽視しすぎたことが挙げられると私は考えています。日本海軍は国力の結晶である戦艦を大和・武蔵・長門など12隻を揃えてアメリカとの戦争に臨みますが昭和16年12月の開戦わずか3日間に日本海軍航空隊はアメリカ・イギリスの戦艦を真珠湾とマレー沖であっという間に7隻も沈めてしまいます。小さな飛行機が巨大な戦艦を沈めるなど不可能だと考えていた世界中の海軍関係者に凄まじい衝撃を与えます。山本五十六の得意や思うべしです。そしてその反動とでも言えるかのように、日本海軍(というより山本五十六)は戦艦を積極的に戦闘に使おうとはせずに瀬戸内海や南方の根拠地トラック島に繋留することが多く、最前線で戦うのは飛行機と小さな駆逐艦や巡洋艦ばかりでした。大切な戦艦を不用意に戦闘で傷つけたくないという思いのほかに、飛行機中心の戦争なんだから戦艦なんかまったく使い物にならない代物だという感覚があったのではないかと思います。
アメリカ海軍は違いました。確かに飛行機の重要性は認めながらも戦艦にも応分の役割を与えたのです。日本軍の立てこもる南方の島々に対する海上からの戦艦の主砲による艦砲射撃は飛行機の爆撃よりもはるかに正確で強大な打撃を日本軍に与え続けました。米軍が上陸する前に多くの日本兵が死傷したうえに陣地や兵器が破壊されてしまい日本陸軍はまともな陸上戦闘ができない状態で上陸米軍を迎え撃たざるを得ないことが多かったのです。また大事な航空母艦を日本の攻撃機から守るためにアメリカの戦艦は航空母艦の傍に張り付いてその強力な対空火器で日本の飛行機を次々と撃ち落としました。
このように一旦ダメとなったら新しい役割を与えることなくとことん干してしまう日本と、新しい使い道を合理的に考えてより有効活用したアメリカとの発想の差が戦争の帰趨にも大きな影響を与えたように思います。冒頭の広瀬淡窓のひそみに倣えば、飛行機はいわば錐と槌の両方兼ね備えた兵器で、戦艦は槌といえそうです。錐と槌両方の能力はないけれども槌としての戦艦の能力を最大限に生かして有効活用する方策を深く考えなかった山本五十六大将は発想の貧困のそしりを免れないと考えます。
会社経営も同じではないかと思います。従業員の能力は千差万別ですから一を聞いて十を知る人から十を聞いて一しか理解しない人までいますが、理解力の乏しい従業員(採用を決めたのは社長さんです!)にもその人に見合った仕事をあてがってその能力を最大限に引き出すというのは経営努力の一環だと思います。旧日本軍のように殴ったり干したりしても問題の解決にはならないことは言うまでもありません。