先日アップした“私のお芝居礼賛 ぱあと72”をお読みいただいたお客さんから次のようなメールを頂戴しました。私のような(受かったらすぐ忘れ果てる)薄っぺらな受験西洋史的知識ではなく、西洋史の深い造詣に基づく様々な興味深いエピソード満載だったのでご本人の了解を得たうえでご紹介します。因みに私には一つも知らないものばかりでした。

西洋の王族とローマ教皇の話

( 頂点を極めた女二人 その光と影 )

さてさて“ぱあと72”今回も楽しく拝見しました。権謀術数渦巻く英国宮廷で宗教対立から不倫まであまたの荒波を巧みにくぐり抜けやがて女王に鎮座するエリザベス1世の政治手腕たるや父親ヘンリー8世ゆずりというほかありませんが、その生涯はこれまで数多くの大女優が演ずるにふさわしく文字通り劇的そのものでした。

150年ほどのちに歴史の表舞台に登場するロシアの女帝エカチェリーナ2世同様、有名なレスター伯 ロバート・ダドリーはじめ絶えることがなかった愛人の一人で探検家のウォルター・ラレーは、雨の日女王が馬車から降りるや前にあった水たまりにすかさず自身がはおっていた豪華なマントをサッと敷いて言った「どうぞこの上をお歩き下さい。」の一言で女王のハートを鷲掴みにしたと伝えられています。その稀代の色男ラレーはアメリカ新大陸より先住民族の嗜好品だった煙草を初めてヨーロッパに持ち込んだ人物でもあり、彼が初めて喫煙中に煙草を知らぬ下僕があわてて”ご主人が燃えている!”と頭から水をぶっかけた話は有名です。また彼は新大陸で発見した土地を女王に敬意を表し”ヴァージニア”と名付けています。

一方で彼女は自身の叔母の孫にあたるスコットランド女王メアリー・スチュアートの出自と美貌に嫉妬しており、母国の政争に巻き込まれ保護を求めてきた彼女を19年もの長きにわたり獄中に留めたのち謀反の嫌疑で斬首していますが、44歳にしていまだ保たれていたその美貌に断頭吏の手もとが狂い斧を二度も三度も振り下ろさなくてはならなかったと伝えられています。

ちなみにウオッカをトマトジュース等で割った赤いカクテル「ブラッディ・マリー(血まみれマリー)」は、哀れ斬首の憂き目にあった彼女に因んだものではなく、またフランス革命時断頭台の露と消えたマリー・アントワネットに因んだものでもありません。エリザベス1世の異母姉で旧教国スペイン王フェリペ2世の妻でもあった前王メアリー1世が、その父ヘンリー8世が自身の不倫相手でのちにエリザベス1世の母となる宮廷侍女アン・ブーリンとの結婚を認めなかったローマ教皇と断絶し新たに発足させた国王を首長とする英国国教会の数多くの信徒を、旧教復活の見せしめで皆殺ししたことに由来しています。

またエリザベス1世が実は男だったとの意表を突いた芝居をかつて坂東玉三郎が演じたとありましたが、これまでの歴代ローマ教皇中歴史上たった一人だけ女性がいたことはご存知でしょうか。

時は暗黒の中世さ中の9世紀、ドイツの名も無き一修道士の娘が、両親の死後当時の誰もがそうだったように尼僧院の門をたたきますがそこでイエスの教えに感銘を受け日々勉学に励みます。その後とある修道士と恋仲になり尼僧院を抜け出し今でいう”駆け落ち”をし、片時も離れず同じ屋根の下で共に学び共に愛し合うことを望んだその修道士が彼女を男装させ”男”に仕立てて自分の僧院に入れます。やがて女性であることが露見したため共にその僧院を抜け出し放浪の果て辿り着いたアテネの修道院に再び共に“男”として入ります。

ヨーロッパ文明発祥のかの地でプラトンやソクラテスなど古代ギリシャ哲学にも触れた彼ならぬ彼女はひたすら研究に明け暮れ、人生を辺境での一修道士として終えることをよしとせず恋仲とも別れ、出世したところでせいぜい尼僧院長止まりに過ぎぬ当時の女としての一生を捨てやはり“男”として一人キリストの総本山たるローマに向かいます。そこでキリスト以前は多神教だった古代ローマの神々にも触れ更に研鑽に拍車がかかり、名声を聞きつけた時のローマ教皇レオーネ4世に謁見の栄を授かります。やはり彼(彼女?)の人並はずれた知性と深い教理上の知識にいたく感銘した教皇は法王庁傘下の神学校の教授に任命し、やがて”聖アウグスティヌスの再来”と言われるほどとみに名声は高まり、教皇の私設秘書を経てついにヒエラルキーの頂点たるローマ教皇まで登りつめます。

しかし長らく封印してきた女の性(さが)が出たのか法王庁のある侍従と今度は“女”として恋仲となってしまいあろうことか子供を身籠ることになります。ヒダのついた袋のごときブカブカの法王衣のおかげで妊娠が露見することはありませんでしたが、とあるミサの最中急に産気づき絶叫とともに嬰児を産み落としてしまいます。その場に倒れ伏す教皇の傍らでオギャァと泣く産声を聞いた参列者の驚愕たるやいかばかり!どうにも説明不可能な出来事に法王庁のひとりが「奇跡だ!奇跡だ!」と叫びその場をおさめようとしましたが、その後多くの年代記作家がかかる前代未聞のスキャンダルを記録に残しています。くだんの“女”教皇はその場で死去、嬰児は父親たる侍従に引き取られますがその後の親子の消息はわかっていません。

ちなみに現在のバチカンはかって女性教皇がいたことは、‟神の地上での代理人に性別を問うなど不信の証し”とばかりに公式には認めておらず、否定も肯定もせずただ「ジョバンニ8世」とその名のみ記録に残されています。(一部の歴史学者は伝説上の人物とする向きもあるようです)