( ”ふるあめりかに袖は濡らさじ” その一 )
“美談”と言われるものはどこか胡散(うさん)臭さが付きまとうような気がすると言ったら言い過ぎになるでしょうか。作家有吉佐和子が昭和45年に発表した“亀遊の死”を自ら戯曲化した“ふるあめりかに袖は濡らさじ”はそんな美談の胡散臭さを見事に表した作品として高い評価を受け、昭和47年文学座でお芝居として初演され主人公お園は杉村春子が演じました。
粗筋は、幕末の横浜港崎(みよさき)の遊郭岩亀楼(がんきろう)が舞台です。ここの遊女亀遊は通訳の藤吉と恋仲ですが、薬問屋の大種屋が接待のためにアメリカ人イルウスを岩亀楼に連れてきます。亀遊を気に入ったイルウスは大金を積んで身請けすると言い出します。幕末当時外国人を相手にする遊女には日本人を相手にする日本人口(にほんじんぐち)と外国人を相手にする唐人口(とうじんぐち)の二種類があり亀遊は日本人口でしたが、岩亀楼主人は大金に目がくらみ身請け話を承知してしまいます。イルウスと岩亀楼主人の通訳は藤吉です。胸がつぶれる思いで通訳する藤吉は、通訳で貯めた金をもとにアメリカに渡り医師としての勉強をしたいと考えていたのです。そのことに絶望した亀遊はカミソリで自らの命を絶ってしまいますが、その死後75日目に亀遊の死の真相を知らせる版元不明の瓦版が出回ります。そこには亀遊が大金を積まれて身請けされそうになったが異国人に身を汚されまいとして見事に死んで見せた攘夷女郎だと記されており日本婦人の鑑(かがみ)とまでされ、さらに「露をだに いとう大和の 女郎花(おみなえし) ふるあめりかに 袖は濡らさじ」という辞世の歌まで添えられてあったのです。
主人公のお園は瓦版の内容が事実と全く異なることを知っており、さらに“辞世の歌”とされるものも10年も前から読み人を替えてはしょっちゅう喧伝されているものだと気づいていました。
機を見るに敏な岩亀楼主人は急遽店のしつらえを亀遊一色に塗り替え唐人口の遊女たちを隠して、攘夷女郎の店として売り出すとこれが大当たりとなります。お園は心ならずも大勢詰めかける客の前で噓八百、亀遊の最期を面白おかしく語らねばならない羽目になります。実際に死んだ亀遊の部屋ではない座敷を亀遊の部屋と称し、亀遊の“遊”の字も“勇”に改められて亀勇とされてしまいます。そして床の間には亀勇の辞世の掛け軸が吊るされ違い棚には遺品が仰々しく並べられます。その前でお園は講釈師よろしく名調子を振るい岩亀楼は大繁盛を続けるようになります。
ところがその5年後大橋訥庵の門下生に対して調子に乗ったお園が酔っ払って講釈している時に亀勇の辞世の歌が実は亡くなる10年も前からお園自身が歌っていたことがばれてしまい、亀遊の美談が一瞬にしてみんな嘘だと門下生に見破られてしまいます。激昂した門下生が刀を抜きお園を追い掛け回し大騒ぎとなりますが、結局攘夷派の誰かが亀遊の死を題材にして美談を作り上げたらしいと気が付いた門下生たちは岩亀楼を去っていきます。虎口を逃れたお園が一人やけ酒をあおり荒れに荒れ、最後にポツリと「よく降る雨だねえ。」とつぶやいたところで幕となります。
私はこのお芝居を平成11年水谷八重子、平成15年藤山直美、平成29年大地真央のお園で三度観ていますが、噓八百を並べる講釈やそれがバレて門下生から追いかけまわされるときの慌てぶりそして最後にやけ酒を飲む場面などコミカルな面やみっともないところも出さねばならないお園役は、美人女優大地真央が勤めるよりは水谷八重子や藤山直美が演ずるのがいいですね。(アハハ! 考えようによっては水谷さん藤山さんに大変失礼な表現です、ごめんなさい。)
藤山直美演ずるお園は大阪から流れ流れて横浜に辿り着いたという設定で原作にはない大阪弁をしゃべるお園でしたが、さすが藤山直美です。全く違和感がありませんでした。それどころか藤山直美作品のうちでベスト3に入れてもいいような素晴らしい作品に仕上がりました。因みに原作にはない大阪弁で上演することに原作者の有吉佐和子の遺族にきちんと了解を取ったうえでのセリフ書き換えだったのだそうで、なかなか難しいものだと思いました。