( “十三夜 その二 ” )
“十三夜”という舞台を見て私が感じた“ちょっと待てよ!” それは、現代劇専門の精悍で格好いい役回りの多い松村雄基(昭和38年生まれ→公演当時52歳)は新派悲劇の人力車夫には全く向いていなかった(ハッキリ言えばミスキャスト)ということと、相手役の波乃久理子(昭和20年生まれ→公演当時70歳!)との年齢差が親子と言ってもいい18歳もあった!! ということはそっちにおいといて、せきが何故いとも簡単に父親主計の説得に応じて原田の家に戻ったのだろうかという疑問です。もちろん幼い子供と離れたくないという気持ちが強かったのは間違いありませんが、どうもそればかりではないような気がします。
せきの弟の亥之助(いのすけ)は、せきの夫の原田勇の取り計らいで職を得て順調に出世していますが、もしせきが勇と離婚することになれば出世は絶望どころかその職場にいられなくなるかもしれません。そうなればせきの実家である斎藤家の家督亥之助と両親も共倒れになることは目に見えています。
せきにしても身分違いの結婚と知りながら想い人の高坂録之助をあきらめて原田の家に嫁いだのも、やはり貧乏よりは安定した生活にあこがれたのでしょう。両親の為に援助もしやすいだろうからその方がいいと(悪く言えば計算高く)判断した末のことなのではなかったか。原田の家が普通以下の暮らしだったらせきはどんなに先方から請われても多分結婚していなかっただろうし、又結婚当初は金持ちでもその後原田が没落していればさっさと別れて高坂録之助のもとに走ったであろうことは容易に想像されます。
せきが原田の家に戻る結末にしたのは、死ぬまでお金に困り続けた樋口一葉ならではの発想だったのではないかと私は考えています。明治・大正のころまで“飯米(の調達)に追われる”という表現があったそうです。今日や明日食べるお米をどうして手に入れようかと苦労する状態を見事に表している、言い得て妙な言葉です。
“飯米に追われ続けた”一葉は、自分が空想世界の小説の中で筆により生み出したせきに対して「フン、辛抱が足りないんじゃないの、その程度の辛さで実家へ帰るなんてさ!アンタ本当の貧乏の怖さを知らないんだろう。」と、もしかすると毒づきたかったのではないか!と言うと“ゲスの勘繰り!考え過ぎ!!”と言われ、一葉ファンに怒られるでしょうか。
個人の感情よりも家族の為を優先させた結果の悲恋物語という構成にして観劇当日多くの女性方を泣かせる展開にしつらえられた“十三夜”という舞台が、発想や見方を変えると“愛よりも経済優先”もっと下品な表現を許していただけるのなら “愛だけじゃあ飯は喰えないんだョー” という恐ろしく現実的で身も蓋もないものに見えてしまったのは私だけだったかもしれません・・・・・・・多分。