先日BSテレビで昭和32年アカデミー賞受賞作品のアメリカ・イギリスの合作映画「戦場にかける橋」が久久に放映されました。私はあまり映画を見ないのですが、学生の頃から何度か見た映画なので懐かしくなって3時間の大作をじっくりと見ました。軽やかな口笛と共に流れるテーマ音楽の“クワイ河マーチ”は、誰でも一度は耳にしたことのある名曲です。
ストーリーは、昭和16年12月の太平洋戦争突入からわずか半年で当時イギリス支配下にあったビルマ(現ミャンマー)全土を制圧した日本軍が爾後の作戦のために友邦タイ国とビルマを結ぶ鉄道の建設を計画し日本軍兵士1万人、現地人10万人そしてイギリスやオーストラリア・オランダなど連合国軍の捕虜5万人を投入して未開のジャングルを切り開いて1年余りで全長415kmに及ぶ泰緬鉄道(たいめんてつどう → 泰はタイ国、緬はビルマをさす。因みにビルマの漢字表記は緬甸)を、日本軍兵士の暴力や過酷な環境に耐えながらイギリス軍捕虜の技術指導により完成させます。そして昭和18年10月25日一番列車がクワイ河の鉄橋に差し掛かった時イギリス兵士が仕掛けた爆薬で橋もろとも日本軍の機関車が河に落ちていくラストシーンは、第二次大戦後わずか12年しかたっていない戦勝国アメリカ・イギリスなどの観客にとっては胸のすく感動的なラストシーンであったに違いありません。
私は橋の爆破というラストシーンが史実だと長い間思っていましたが、実はまったくのフィクションだったのです。この鉄道は日本陸軍の優秀な鉄道第五連隊と第九連隊が独力で鉄道を完成させたものでイギリス軍捕虜の技術協力は皆無でしたし、橋が爆破されて一番列車が河に落ちていった事実もありません。なによりもクワイ河橋などその当時は存在していなかったのです。映画によって史実を意図的に捻じ曲げて発信することで世界中の人達の感覚を変えるということはそう困難なことではないのだなと、改めて映画の持つ恐ろしさに気が付きます。
この泰緬鉄道建設に関して映画のフィクションとは違う重い史実を真正面から取り上げたのが平成30年3月新国立劇場で公演された「赤道の下のマクベス」でした。
韓国人の戯曲作家鄭義信の手になるこの物語の舞台は昭和22年日本敗戦後のシンガポール、チャンギー刑務所 BC級戦争犯罪人の死刑囚が収容される監獄Pホールです。そこには泰緬鉄道建設の際、連合国軍捕虜に対する虐待の罪で死刑判決を受けたいわゆるBC級戦犯が収監されています。演劇に憧れボロボロになるまでシェイクスピアの戯曲マクベスを読んでいる朴南昇、自分を苦労して女手一つで育ててくれた母親に楽をさせようと期間2年限定で月給50円(当時最下級の二等兵の月給が6円)帰国後は日本人並みの待遇を与えるとの好条件につられて捕虜監視員に応募し遥々ビルマまでやってきた李文平、一度は無罪判決で釈放されながら再度捕まり死刑宣告を受けた金春吉の三人の朝鮮人元軍属。(軍属とは軍を構成する要員のうち軍人ではない者の総称で、直接戦闘に参加することはないため日本軍内部では低く見られていた。)そして泰緬鉄道建設のため帝国軍人としての本分を尽くそうと努力した山形大尉ら6人の収監者がいつ執行されるかわからない死の恐怖に怯えながら収容所内の日々を送っています。
捕虜虐待を禁止したジュネーブ条約の存在そのものを知らなかった彼らは、連合軍の捕虜に対して過酷な労働を強い日常的に暴行を加えその劣悪な環境とも相まって捕虜の約27%(1万3千人余り。)が死亡したと言われています。捕虜監視員として上官の命令は絶対であり任務遂行のために暴力を含むあらゆる手段を使って捕虜を使役したのです。当時の東条英機首相が「一日といえども捕虜たちには無為徒食をせしめず。」と訓示したことも苛烈な強制労働に拍車をかけました。ジュネーブ条約違反など彼ら捕虜監視員の意識には露ほどもありません。
平成元年6月に起きた悲惨な天安門事件の存在を知らない同胞中国人を嘆いて「知らない ということを 知らないのだから 彼らは本当に 知らないのだ。」とは、先年亡くなった中国の人権活動家の言葉ですが、当時の日本軍人や捕虜監視員たちにとってまさしくその状態だったのです。
過酷な環境を生き延びた連合軍捕虜たちは日本の敗戦後自分達を悲惨な目に合わせた日本軍将兵や監視員に復讐のため捕虜虐待の事実を針小棒大に証言し被告の死刑判決を次々に「勝ち取って」いくのです。悲しいことですがこれも人間としての本能、自然な感情です。彼ら連合軍元捕虜達にとって日本人も朝鮮人も全く関係ありません。カナダに留学した人に聞いたことがあるのですが、カナダ人は(おそらく欧米人みんな)日本人と朝鮮人・中国人は一括りにとらえていてほとんど区別していないのだそうです。まして日本の敗戦まで朝鮮は日本の領土であり民族としては別であっても日本国籍を持った日本軍関係者だった朝鮮人の捕虜監視員を連合軍捕虜達は日本軍将兵と別に考える必要はありませんでした。自分たちへの理不尽な仕打ちの記憶から虐待した容疑者たちを告発、そして“Death by hanging → デス バイ ハンギング → 絞首刑 ”の判決となっていきます。BC級戦犯として起訴されたのは5700人でそのうち朝鮮人は148人、そして934人に死刑判決が言い渡されたうち23人の朝鮮人が死刑を執行されているのだそうですが私はこの芝居を見るまで朝鮮人BC級戦犯のことは(迂闊にも)知りませんでした。
舞台上に設えたチャンギー刑務所監獄Pホールは正面中央におぞましい死刑執行台とその両側に3人分づつの独房があり それらに囲まれた狭いスペースで日本人と朝鮮人死刑囚6人が、わずかな食べ物を巡る諍いや責任のなすり合い、そして「妹がイギリス総領事に掛け合うとの手紙が来た。」「誰それが自分の無実を証明してくれる。」など藁にもすがりたい思いを述べ合い生延びようとする気力を掻き立てます。朝鮮人捕虜監視員達にとってただ上官の命令に従って任務を忠実に遂行し、それまで自分たちがされた程度の暴力を捕虜達にしただけなのに何故それが死刑宣告になるほどの罪になるのか理解できません。そして結局誰を恨めばいいのかすらもわからなくなります。戦前から戦中そして戦後のある時期まで在日朝鮮人は日本で不当な差別や理不尽な扱いを多く受け続けてきたと言われます。舞台での金春吉の「ある時は日本人と呼ばれある時は朝鮮人と軽蔑され、ある時は軍人と持ち上げられある時は軍属と蔑まれながらも日本に尽くしてきた・・・。」という絞り出すようなセリフに、「こんなに苦労してきたのに何故自分がこんな所で死ななければならないのかがわからない。」という思いが集約されているような気がしました。
そして山形大尉ほか2名の死刑が、残った3人の目の前で執行されます。思いはどうあれ3人とも目隠しを拒否して逍遥として死刑台に上りそして死んでいきました。実際の死刑執行の現場もかくやあらんというぐらいのリアルさに思わず目を背ける観客やさらにはすすり泣く声が観客席のあちこちから聞こえました。
多くの場合このような戯曲はある意図を持って(要するに史実を捻じ曲げて)自分たちを正当化しようとしたり、また誰かを断罪したり或いは組織を貶めたりする場合が往々にしてありがちなような気がしますが、この「赤道の下のマクベス」はそのようなことは微塵も感じられず、過去に間違いなく起きた悲しい出来事を淡々と俳優たちに語らせ歴史の闇に埋もれていきそうな事実に光を当てようとした秀作でした。ただあまりにも重いテーマを取り上げた戯曲だったために私は終演後すぐには席から立ち上がることができず深いため息をつきながらしばし呆然としていたのは初めての経験でした。
昭和20年の第二次世界大戦終結からまもなく73年が経過しようとし、BC級戦犯を収監したフィリピンのモンテンルパ刑務所やシンガポールのチャンギー刑務所を知る人はかなり少なくなってしまいましたが、「赤道の下のマクベス」のような演劇を通じてBC級戦犯の悲劇を語り継ぎ広く知らしめることは、遠い異郷の地で不条理に命を奪われねばならなかった人たちへの供養と鎮魂そして平和を考える上でもとても重要なことだと考えます。