宮沢賢治という名前を聞いて多くの人は“雨にも負けず 風にも負けず”の詩や“風の又三郎”や“銀河鉄道の夜”と言った童話を思い浮かべることと思いますが、“イーハトーボ”という人間と自然が共生し誰もが争わないで自由で平等な理想郷を作ろうとして挫折したことを知る人は地元岩手の人以外はそう多くはありません。 

平成312月の紀伊国屋ホールは、井上ひさしの“イーハトーボの劇列車”でした。明治29年花巻の比較的裕福な家庭に生まれた賢治は幼少のころから成績優秀で盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)を首席で卒業するも貧しい者から安い金で品物を預かる質屋・古着商という父親の事業を好まず父政次郎に事業転換を訴えさらに自身の進路や信仰問題(父政次郎は浄土真宗、賢治は法華宗)でしばしば衝突してついには家出します。その後一時花巻農学校の先生をするも、大正15年依願退職し農業に従事しながら羅須地人協会を設立し冒頭に述べた農民の理想郷イーハトーボを作ろうとします。しかしその資金の多くは実家からのもので一部の人達からは金持ちの道楽という目で見られていたと言います。

そして挫折、体も悪くして故郷に帰った賢治は様々な確執のあった父親とも和解し、昭和8年その死の病床で父親から「何か言っておくことはないか」と尋ねられて自身の遺言を伝えると父親は「お前もなかなか偉い」と褒め、賢治は弟清六に「俺もとうとうお父さんに褒められたもな」と嬉しそうに語ったと言います。賢治はその後母親から渡された水を飲み、オキシフルを付けた消毒液で体を拭いてもらって「ああ気持ちいい。」と言って息を引き取ったと言われています。わずか37歳でした。 

お芝居はこの宮沢賢治の理想郷建設が挫折し、死んだ農民たちがこの世に残した未練や悔いを“思い残し切符”としてそこら中に配りながら行く先があの世なのか銀河なのかわからないが列車に乗り込んでこの世を去っていくという ストーリーです。

私は詩人・童話作家としての宮沢賢治は評価しています。賢治の死後に刊行された孤独な少年ジョバンニが友人カムパネラと銀河鉄道に乗って宇宙旅行をする“銀河鉄道の夜”や、病気を音楽で直すという“セロ弾きのゴーシュ”などの作品は明治生まれの人が大正末期から昭和初期に書いたとは思えないほど未来を先取りして心躍る童話です。

しかし昭和の始めに賢治が設立した羅須地人協会は協会とは名ばかりの宮沢賢治が農業指導を行いながら理想郷建設のためのいわば私塾のようなもので若い農民からは受け入れられたものの、年配の保守的な農民からは冷ややかな目で見られていました。何よりも資金の出所が実家であったという現実に私は幻滅するのです。

自分の力で誰にも頼らずにということであれば少し話は別ですが、実家の財力を(意識的あるいは無意識にも)あてにして理想を追い求めようというのは金持ちの道楽と呼ばれても仕方ないのです。当事務所のお客さんの若い二代目さんにもこの宮沢賢治のような方が少なからずおいでになります。社会貢献を旗印に大言壮語に近いことを並べ「そのための費用は惜しまない。」と公言しながら実際その資金の出所は父親である先代が貯めたお金であったり先代が確立した利益を生むビジネスモデルだったりします。「自分が苦労して作ったお金じゃないからそんなにパッパパッパと仕えるんじゃないんですか!」まぜっかえしたくなることもあります。まずは自分の力で自分の会社の基盤を整え新たな収益源を作って充分に余剰資金を貯めてから社会貢献をしても遅くはありません。まずは“自分の頭のハエを追え”という諺の通りです。

優秀な人は理想郷を作りたがるもののようです。昭和陸軍の奇才石原莞爾の“王道楽土満州国”、北朝鮮の“地上の楽園”、カンボジアでも時の政権によって鎖国をしてまで自分たちの考える理想郷を作ろうとしたことがありましたが、みんな失敗しています。そしてそのたびに多くの血が流れてきたことは歴史の教える通りです。その人が“理想郷”と考えても多くの人が果たしてそう考えるかどうかは別問題なのです。 

劇作家井上ひさしさんが宮沢賢治をここまで評価して戯曲にまで何故とり上げているのかが私にはどうもよくわかりません。お芝居そのものもわかりにくいもので、演出家も「何もない場所から死者たちが走らせる“劇列車”」というタイトルで解説文を載せています。その中では「これは死んだ農民たちの劇です。彼らの思い残したことは切符になってそこら中に配られ僕らも知らず知らずにそれを手にしながら生きているかもしれない。」と結んでいますが、これも何を伝えたいのか理解できない表現です。

宮沢賢治ファンには申し訳ないことですが、理想郷建設の挫折をわかりにくいお芝居構成にして、演出家もわかりにくい表現で演出するという、どうにも私のような凡人には理解を超えるお芝居であったような気がしています。