( 富樫 )

歌舞伎の名作“勧進帳”は加賀の国安宅関の関守富樫左衛門が主君を必死に守ろうとする弁慶の振る舞いに感銘を受け源頼朝に追われる義経主従と知りながら関所の通行を許すお話ですが、歌舞伎の演目“富樫”はその後の富樫左衛門とその一族の運命を描いたいわば勧進帳の後日談とも言うべきお芝居です。劇作家野口達二の代表作でもあるこの物語は昭和35年の初演以来好評を博し今日まで再演が繰り返されています。

“富樫”の粗筋です。

加賀の国の郷士富樫家の長男左衛門は領民思いで知られ、仲の良い弟兵衛と共に領国で穏やかに暮らしていました。源平の争乱はここ加賀の国では遠い他国のことにしか思われず、紅白の梅の花びらで源氏と平氏の勝ち負けを占うほどの気安さで、彼らにとって源義経など身近に感じたことはなかったのです。しかし鎌倉の源頼朝による義経捕縛命令により状況は一変、富樫一族にとっては迷惑至極にも頼朝の腹心梶原景時はじめ鎌倉方の手の者が加賀の国でも目を光らせるようになります。

兵衛は左衛門が義経一行を逃がしたとの噂を聞いて兄左衛門を問い詰めると左衛門はとうとう「義経主従と知って逃がした。」と明かしてしまいます。驚愕した兵衛は義経一行を捕らえるために館を飛び出して後を追いますが、密告によってこのことを知った鎌倉方の武士が富樫の館に攻め寄せてくるのを見て引き返します。兵衛は自分の首を差し出し富樫の家を守ろうとして腹を切りますが、しかし時すでに遅く鎌倉方の討手が館を包囲したのを見た左衛門は館に火を放ちます。富樫一族の終焉です。苦しい息のなか介錯を促す兵衛は「生まれ変わっても兄者と一緒だ。」とつぶやいて絶命するところで幕となります。

作者の野口達二は「弁慶がヤンヤの喝采を受けながら花道を飛び六法で退がる時、定式幕のかげにフッと消える富樫が土地を捨て生活を捨ててそれこそ虎の尾を踏む思いでやはりみちのくに落ち延びる。その姿に哀れを感じないではいられなかった。」と書いた後に続けてさらに「判官主従の落ち延びる奥州平泉に落ち延び果てた富樫。雪解けの頃みぞれに打たれドブネズミのような姿で落ちる判官主従と富樫主従を瞼に描きながら古典のあの明るい松羽目の舞台の型の中に生きる富樫に別の血を通わせたいと思った。」とも書いています。

史実追求ではない物語の中で富樫左衛門は弟兵衛の自害、館に火を放った後自身もその燃え盛る炎の中で自害したのかと思いきや、左衛門も義経一行が逃れようとしている奥州平泉を目指したのです。歌舞伎“富樫”の幕切れには左衛門の死は描かれておらず観客にその最期の様子を想像させるだけでしたが野口達二のこの文章を読んだ時なぜか救われた思いでホッとした記憶があります。

しかし義経主従が保護を求めた奥州平泉の藤原氏もその後まもなく源頼朝の鎌倉方によって滅ぼされ義経と共に富樫左衛門も悲惨な最期を迎えたであろうことは容易に想像がつきます。義経が生延びたとする義経北行伝説に富樫左衛門の名前が出て来ることはありません。

このように歌舞伎“富樫”は“勧進帳”とともに弱者に対する憐れみと滅びの美学を観客に訴えかけるに充分見事な戯曲となっていますから、両方の作品を見ることでより一層歌舞伎屈指の人気作品の理解が深まるものと思います。

ところで左衛門や兵衛を名前だと勘違いしている人は多いと思いますが、これらは人の名前ではなく実は官職を表す名称です。彼らの名前は(お芝居には出てきませんでしたが)別にあるのです。因みに左衛門も兵衛も宮中を警護する役職の名称ですが、実際に宮中を警護するわけではなく(そういう人もいますが)形式的に朝廷より(多分何がしかのお金を贈ることで)賜ったものをいわば箔をつけるために名乗るだけです。

そして義経はというと源九郎判官義経と称されますが、源は苗字、九郎は父義朝の九番目の子供であったことから付けられ、判官は平家を滅ぼした後朝廷から賜った官職である検非違使の尉(けびいしのじょう)の「尉」が別称判官だったことに由来します。

忠臣蔵で有名な大石内蔵助の内蔵助も実は名前ではなく財政管理の役目を担う官職の名称で、ホントの名前は良雄といいます。大石良雄の主君浅野内匠頭(たくみのかみ)の内匠頭も名前ではなく官位を表す名称でありこちらもホントの名前は長矩(ながのり)といいます。

同様に羽柴筑前守(ちくぜんのかみ)秀吉ですが、筑前守は官職を表すので私は随分と長い間秀吉は筑前の国(現在の福岡県西部)の領主になっていた時期があったと思っていたのです。しかし秀吉関連の小説やドラマに筑前の国の領主時代の話は全く出てきません。これは大層不思議でしたが、“○○の守”という官職は実際にその国を治めるということとは関係なく序列に従って形式的に与えるものだということが後になってわかって、なあんだ!と思ったことがありました。

この官職名は実際の名前を呼ぶのは畏れ多い時に名前の代わりに通称として使われることが多くありました。今だって菅総理大臣を周りの人が呼ぶときに「菅さん」とはあまり呼ばずにほとんどの場合「総理」と呼びますね。自分を偉く見せかけようとするのかどうかテレビ番組などで「菅さん」と気安く言う人はたまにいますが、少し違和感を覚えるのは偏見でしょうか。

私がこの歌舞伎“富樫”を歌舞伎座で見たのが平成128月でしたからもう20年以上も前のことです。富樫左衛門役を務めたのが坂東八十助(当時)でした。八十助は翌平成13年に10代目坂東三津五郎を襲名するも平成27年に59歳で亡くなっています。富樫兵衛を勤めたのが中村橋之助(当時 →現8代目中村芝翫)、兵衛の妻を勤めたのが中村福助(当代)でしたが、その時の筋書本に掲載された各役者さんの写真を見るとホントに若い!今の重厚さはないけれども香り立つような(初々しさはもう抜けていましたが)若さが感じられ、改めて20年の歳月を思い知らされました。