平成29年3月の日生劇場はフランスの国民的作家と言われるマルセル・パニョルの人情喜劇の傑作“マリウス”でした。“男は辛いよ”で知られる山田洋次監督がこのお芝居の脚本・演出を手掛けたことでも話題になりました。

ストーリーは1931年(日本で言えば昭和6年です。)フランスの港町マルセイユで居酒屋を営んでいる父セザール(柄本明)の手伝いをしながら遠洋航海の船乗りになることを夢見ている息子マリウス(今井翼)は幼馴染のファニー(瀧本美織)と相思相愛の仲で、ある夜ついに結ばれる。しかし翌日マリウスは船に乗るチャンスをつかみながら何年という単位でマルセイユに帰れないため逡巡するが、そのマリウスの背中をファニーが無理やりに押してその夢を叶えさせてあげようと送り出すのである。ところがたった一夜の契りで妊娠してしまったファニーは今後の生活も含めて悲嘆にくれるが、すべてを理解したうえで親子ほど年齢の離れたマルセイユの実業家パニス(林家正蔵)がファニーの面倒を見るために結婚する。1年半後にマルセイユに戻ったマリウスはその衝撃の事実を知り、マルセイユを去ってまた遠洋航海の船に乗り込むところで幕となる。

1918年に終わった第一次世界大戦の傷もようやく癒え、1939年に勃発する第二次世界大戦まではまだ少し間がある束の間の平和な戦間期の港町マルセイユを舞台に、ジプシー三人組がフラメンコを披露しては物乞いのようにお金を恵んでもらったり、ベトナム人の花売娘・郵便配達夫や船乗り、男娼(このころにも存在していたらしい!)など当時の猥雑な世相をスパイス的にちりばめて観客を飽きさせることのないお芝居でした。圧巻だったのはジプシーが踊るフラメンコダンスに主演マリウス役の今井翼が合わせて二人で踊るシーンです。ジプシー役は女優業もこなす工藤朋子というプロのフラメンコダンサーで、その切れのある踊りはしばし観客をうっとりとさせてくれました。塒(ねぐら)さだめぬジプシーたちが、踊っていないときは居酒屋の前の埠頭で何の希望も夢もなく物憂げにただじっとしている虚無的な姿も印象に残りました。このような名もないジプシーたちが間違いなくこのマルセイユの地に存在していたのでしょう。

私がこのマルセル・パニョルの書いたお芝居を見て驚いたのが、日本の歌舞伎・新派悲劇・浪花節・落語の人情話などでよく使われる“義理と人情と瘦せ我慢”がお芝居全体を覆っているということです。外国の物語としては極めて珍しいような気がしますが山田洋次監督が演出を担当しているからより強くそう思ったのかもしれません。マルセル・パニョルの書いた「マリウス」「ファニー」「セザール」のマルセイユ三部作は山田洋次監督が、学生時代に読んで大変な衝撃を受けその後「男は辛いよ」の寅さんシリーズの原点になったのだそうですが、それぐらい日本人の心情に素直に訴えかけるものを感じられる作品ということです。

もう一つ驚いたのが元アイドルタレントの今井翼が持っている演技力の素晴らしさでした。よく人気若手歌手やタレントが座長を務めるお芝居が特に明治座などで公演されますが、演技の基本もその実力もない若手歌手・タレントをその人気だけで座長に据えて(脇をベテランの実力派俳優が固めるからお芝居の体裁は整うのですが)お芝居をさせるのは如何なものかと思いますね。(じゃあ見なきゃいいじゃん!と突っ込まれそうですが。)セリフは棒読み、殺陣に至っては小学生のチャンバラに毛の生えた程度と言ったら言い過ぎか。
“タッキー&翼”というアイドルユニットで一世を風靡した(のだそうですが私は全く知りませんでした。)今井翼がその人気ゆえに抜擢されたんだろうぐらいにちょっと斜に構えてみていましたが、なんの!なんの!舞台俳優としての存在感が十分伝わってくる主役としてお芝居を引っ張っていました。
今井翼を初めて舞台で見たのが平成21年7月新橋演舞場での「シャネル」のアーサー・カぺル役でしたが、当時それほどの印象はありませんでした。その後平成25年11月の新橋演舞場での「さらば八月の大地」の池田五郎役での演技がちょっと印象に残り、昨年11月の新橋演舞場での「五右衛門」のカルデロン神父役で主演片岡愛之助の相手役を驚くほど立派に務めあげました。その時初めて今井翼の経歴を調べてみたのですが、昭和56年生まれの彼はアイドル活動を飛び出してスペインに渡ってスペイン語を学びその語学力は日本大学で特別講義をするほどだとか。スペイン文化特使や親善大使も務め、またフラメンコも玄人はだしの実力派。要するにアイドルの地位に安住することなく活動の範囲を広げようと努力した結果の舞台ということでスペイン語もフラメンコも新分野開拓の有力なツールになっているのです。
芸能界という厳しい世界でアイドルとして活躍できる期間は意外に短いもののようです。いつまでもアイドルにしがみつくのか、努力して新分野で勝負するのかでその後のその人の人生は大きく変わる如くです。お笑い界でも司会などに転身して成功している人たちは少数いますが、そのほかの多くはごく短い期間だけ時代の寵児になってそして消えていっています。(多分凄まじい)努力の結果として舞台俳優の地位をしっかりと手にした今井翼の今後の活躍に期待したいと思います。