( “無法松の一生” その二 )
戦争真っただ中の昭和18年に公開された映画“無法松の一生”は大当たりとなります。戦前の人気俳優坂東妻三郎(田村高廣・田村正和・田村亮三兄弟のお父さんです。)が富島松五郎役を勤め、園井恵子が吉岡大尉夫人役を演じました。当時人力車夫風情が帝国陸軍大尉夫人に懸想(けそう)するとは何事かと、映画公開に当たり該当場面はカットされたと聞きます。
私は中学生の時にこの坂妻と園井恵子の“無法松の一生”の映画をテレビの放映で見たのですが、感動のあまりすぐ原作本も購入(春陽文庫昭和42年発売、値段は100円でした。)して読んでいます。その後もテレビドラマで何度か放映されるたびに必ずと言っていいほど見ていました。そのたびに松五郎の吉岡夫人と敏雄に対する無償の愛とも言うべき献身に涙したのですが、平成7年9月宮城県民会館での観劇の際、別な角度から松五郎の可哀そうな面に思いが至りました。
松五郎は吉岡大尉の忘れ形見の敏雄を可愛がり続けますが、敏雄は成長するにつれてそのことを疎ましく感じるようになり、松五郎としだいに距離を取り始めます。家族を持たなかった松五郎は子供の反抗期というものを多分知らないので敏雄が自分をなぜ避けるようになったのかを全く理解できません。子供は小学高学年から中学・高校にかけて心理的にも親から離れようとする場合が多いものですが、敏雄も父親代わりのような松五郎に対してそのような振舞いをするのは自然なことだったかもしれません。しかし松五郎は敏雄に対していつまでも無邪気な子供の頃のイメージを持ち続け、優しく接すればいつまでも自分になついてくれるものと勝手に信じこんでいたのです。親離れや子離れなどという発想が松五郎にはありませんでした。
テレビで野生オオカミの母と子のドキュメンタリー番組を見たことがあります。命の危険をおかしてまで懸命に母親オオカミが子供を育てるのですが、ある時突然母親オオカミが我が子に敵意をもって強く噛みつくのです。驚いた子供オオカミがそれでも母親オオカミにすり寄るとさらに強く噛んで大きい唸り声で威嚇します。子供オオカミはつい昨日まで優しく接してくれていた母親オオカミの豹変に怖気(おじけ)づいてやがて何度も後ろを振り返りながら去っていくのです。母親オオカミが子供のオオカミに親離れを荒療治で促した瞬間の貴重な映像でした。母親オオカミの本能とはいえ見ていてこちらが切なくなりました。母親オオカミは「アタシャ来年も子供を産まねばならないんだ、いつまでもお前だけを育てているわけにはいかないんだよ。」と去っていく子供オオカミを見ながら思ったかどうかは分かりませんが、きっと自然界ではこのようなことが日常茶飯に起きているのでしょう。
私の親類に扇谷正造さん(平成4年79歳で没)という評論家がおりました。仙台二高から東大文学部に進学し朝日新聞社に勤めました。正造さんが二高の寮住まいの時に仙台から50km余りも離れた実家の涌谷町から母親のたかさん(我が家では親しみを込めて“おだがっつぁん”と呼んでいました。)が息子の好物を持って汽車とバスを乗り継ぎやっとの思いで寮に面会にやってきたのですが、入寮しているほかの同級生に気兼ねして会わずに追い返したことがあったのだそうです。「とぼとぼと帰って行く母親の小さな後ろ姿を、寮の窓から遠くに見て悲しくなった。」と何かのエッセイに書いておりました。“おだがっつぁん”も正造さんも両方ともに胸がつぶれる思いだったはずです。とにかくこのころの子供というものは、粋がって積極的に親離れしようとするものですが、あとで後悔し自責の念に苛まれる場合が多いもののようです。
敏雄の成長に伴う自然な親離れのような振る舞いに戸惑い混乱する松五郎は、次のような理屈を考えます。小説の文章によれば「学問はなかなかよくできるそうだ。学問ができれば出世して偉い者になれる。偉い者といやあ髭でもはやして何事でも横柄で威張り散らすもんだ。坊ん坊ん(ぼんぼん)が近ごろ俺を嫌い出したのもおおかた学問ができて偉い者になりかかったせいだろう。いったい学問というやつは俺たちをバカにする道具に違いない。チェッ、しゃくな学問だなあ。としきりに学問が恨めしくなった。」と表されています。
両親と子供あるいは祖父母と孫の関係も、子や孫の方から一方的に親離れ祖父母離れをして同様の展開をたどることが少なくないような気がします。自然の摂理ということで受け入れねばならないのかもしれません。しかし仮にそのようになっても両親も祖父母もこの世からいなくなった何十年後かに、どうしようもなく懐かしくそして申し訳なく思いながら「生きているうちに何にもしてやれなくて御免な。」とつぶやいて、お墓に手を合わせる子や孫の姿があるのもまた少なくないような気がします。
小説では後年大会社の機械課長に出世した吉岡敏雄が自分の課長室で松五郎との交流を思い出し、たまらなく懐かしむくだりがあります。文章にはありませんでしたが、きっと松五郎が生きている間になんのお返しもできなかったことを後悔しながら密かに涙したことでしょう。
そしてそれを見た“無法松”こと富島松五郎は、あの世でこう言ったに違いありません。
「いいんだよ、坊ん坊ん、そう思ってくれるだけで俺は充分満足だよ。嬉しいよ、有難うな有難うな。」と。