平成19年7月の歌舞伎座は名演出家蜷川幸雄演出の“十二夜“でした。蜷川さんは歌舞伎の演出は手がけないと公言していたのを当代尾上菊五郎が口説き落として演出してもらったのだそうです。
このお芝居はシェークスピアの同名の戯曲を日本に置き換えて歌舞伎仕立てにしたものです。パロディとはいえないのですがこのようなことはごく普通にあります。江戸時代に お上に遠慮して織田信長や豊臣秀吉などをそのままの名前で舞台に登場させられなかったため小田春長、真柴久吉などと名前を変え又時代も室町時代や鎌倉時代に設定して上演していました。そのため実際の歴史や事件を知らないと舞台そのものもわかりにくい場合がありますが、江戸時代の観客はみんな常識として知っていて観劇していたそうです。当時の一般民衆の教養の程度が知れます。
さて舞台の幕が開いたときです。なぜか見慣れたようで見慣れない異質な情景が目の前の舞台に広がり始めたのです。なんと舞台全部に大きい鏡がしつらえてあったのです。そのため舞台を見る観客席が、桟敷席や三階席も含め全景が等身大でそのまま目の前に現れたので会場は大いにざわめきました。これまで鏡は小道具としてはたくさん使われましたがこのような使われ方をしたのは今回が初めてです。
芝居の最中も舞台正面奥と両袖に微妙に角度を変えて鏡を配置しているので演ずる役者さんを一方向だけからだけでなく後姿、横など様々な角度から鏡を通して見ることができ大変興味深く感じました。
数ヶ月前からホテルや新幹線の手配も含め周到な準備をしてやっとの思いで観劇に行くのですから気分よくお芝居に没頭したいのは人情ですが、たまには没頭できない場合もあります。その理由の一つに隣の席に座った人があげられます。多くの観客は観劇のマナーをわきまえ静かに見ていますが、まれにビニールをカシャカシャさせながら何かをしょっちゅう取り出したり仕舞い込んだりする人がいます。また私語をする人ややたら落ち着きなく動く人もいます。それから口臭がひどい人も困りものですね。前の日ににんにくを大量に食べたのでしょうか、あの臭いを撒き散らしながら観劇しているのです。しかも大あくびをしたりひどい溜息さらにはなぜか深呼吸をすることもあり迷惑この上なしです。できれば小柄で静かな連れのいない女性(年齢問わず!)が隣だといいですね。
ところが平成19年7月天王洲銀河劇場で「東京タワー オカンとボクと時々オトン」を見たとき、最も隣の席に座ってもらいたくない人がどっかと座ってしまったのです。
リリーフランキー原作の「東京タワー オカンと…」は映画やテレビでも放映され小説はベストセラーでした。映画ではオダギリジョーと樹樹希林でしたがこの舞台では荻原聖人と加賀まり子が演じました。林隆三と石田ひかりが共演しているのですが、私は歌舞伎に比べて現代劇はそれほど多く見ているわけではないのでこの四人を舞台で見るのは初めてです。それだけに期待に胸膨らませていました。
あらすじは福岡からイラストレーターになることを夢見て上京した荻原聖人扮する雅也が、パートで苦しい生活をする加賀まり子扮する母親に小遣いをせびりながら自堕落な日々を過ごすうちに母親がガンに侵されていることを知り東京のアパートで同居をすることになるのです。一念発起した雅也が少しづつイラストレーターの仕事が増えてきた矢先とうとう母親が死んでしまうという話です。
母親という人種は父親に比べて得ですね。小説にはお涙頂戴的な“母物”というジャンルがありますが“父物”というのは聞いたことがありません。歌だってそのものずばりの “かあさんの歌”をはじめとして少し前作詞者と歌手との間で何かと物議を醸した“おふくろさん”そして“東京だよおっかさん”古くは“瞼の母”に“母紅梅の歌”などなど…
たくさんありますが、父親を題材にした歌はごく少ない気がします。“オヤジの海”程度でしょうか。“東京だよおとっつぁん”などというのは絶対にありませんね。
さて招かれざる隣席の観客です。40代とおぼしきパンチパーマで大柄でいかつい顔に黒い服、誰が見ても一見してやくざ!とわかる人だったのです。人を見た目で判断するのはよくないことですがこの場合誰がどう見たってやくざにしか見えない人が私の左隣に座ったのです。学生時代空手部として鳴らした(いや鳴ってない。)のも今は昔、ゴルフすらやらない私はこのごろはちょっと大きい家具を動かしたり庭の草むしりをするとすぐ筋肉痛になるほど運動とは無縁の生活が30年も続いています。心臓の鼓動は早まるわ、冷や汗は流れるわで大変です。何でこんな奴が俺の隣に座るんだよーと運命を呪いながら、狭い席ですができるだけ右側に寄りしかも左を見ないように注意しながら舞台を見ていました。 せっかくの面白い舞台が半分しか集中できません。
ところが何かの拍子に左の席に座るこのやくざ(風の男)の右横顔を見てしまったときです。一生懸命舞台に注目しているその顔がなんと涙と鼻水でびしょびしょだったのです。顎の先端からはポタポタポタと大粒の涙のしずくが間断なく落ちています。顔中から涙と鼻水が湧き水のようにコンコンと噴出しているようでした。一瞬私の目が点になり、しばし(数秒ですが怖いのも忘れて。)見とれていました。この人は自分自身の人生と舞台を重ね合わせて母親のことを思ったかどうかはわかりませんが、それまでの私の恐怖感がスーッと引いていくのがよくわかりました。
“親孝行したいときに親は無し”と“人は見た目で判断してはいけない”ということを 再認識させてもらった、それはそれは素晴らしい教育的な舞台でありました。