“ 俊寛 その三 ”
平家物語巻三中「有王島下り」の段には、赦免船に乗ることが叶わなかった俊寛のその後に関して次のような記述があり読者の涙を誘います。
鬼界が島に一人残された俊寛は深い絶望と孤独に打ちひしがれますが、しかし丹波少将成経が自分の恩赦を何とかしてくれるかもしれないという一縷のかすかな望みを頼りに身投げもせずに乞食のような生活で島を放浪しながら赦免船が去ってからもさらに生き続けます。
そしてそこへ昔俊寛が可愛がった有王(ありおう)という召使が、遥々都から俊寛の12歳になる娘の手紙を携えて鬼界が島までやってくるのです。途中九州の地で追いはぎにあうなど様々な苦難を乗り越えてやっとの思いで島にたどり着き、とうとう俊寛との再会を果たします。これ以下はないであろうというみすぼらしい身なりと蜻蛉(かげろう)のようにやせ細った俊寛は、眼前の男が有王だとわかると浜辺の砂の上に倒れ伏し気を失います。有王の膝の上に助け起こされた俊寛は自身の妻や身内の者がほとんど死んだことを聞かされ、唯一残された娘からの手紙を顔に押し当ててさらに有王の話に聞き入ります。そしてそれからすべての希望を失った俊寛は一切の食事を絶ち37歳でこの世を去ります。有王が訪ねてきてわずか23日目の事でした。有王は松の枯れ枝や枯れ葉で俊寛の遺骸を蓋(おお)って荼毘(だび)に付し、遺骨を拾って首にかけてまた苦難の末に都に戻ります。俊寛の娘に最期の模様を聞かせると、娘は倒れ伏し声も惜しまず泣き続けそのままわずか12歳で尼となって奈良の法華寺で父母を弔って生涯を終えます。また有王は俊寛の遺骨を首にかけて高野山に上り奥の院に納骨するとともに蓮華谷で法師となり諸国七道を修行して旧主の後世を弔ったということです。
平家物語では「有王島下り」の最後を“かように人の思い嘆きの積もりぬる、平家の末こそ恐ろしけれ”という文章で結んでおり、あまりに多くの人々の恨みをかった平家がやがてたどる滅びの道への暗示を表現しています。仏道に言う因果応報ということでしょうか。
私が歌舞伎芝居の作者なら“実録 鬼界が島の俊寛”という外題で、平家物語に書かれた通りの俊寛の情けない人間臭さを前面に押し出した筋立てにしてみたいところです。人間というものは生きるか死ぬかの極限になると恥も外聞もなく生への執着心をあらわにしてしまう本能だけの存在になるものだということを表現することはかえって観客の共感を呼ぶような気がします。笑いを取ることも容易そうですし、しかも最後に苦難を乗り越え有王が会いに来てくれて少しだけホッとする場面を設けてお涙頂戴もできそうです。俊寛役は松本幸四郎丈や中村吉右衛門丈などでは畏れ多いので、中村獅童や市川中車あたりがよさそうですね。
因みに“実録もの”とは例えば「実録 忠臣蔵」「実録 先代萩」など”歌舞伎にはよくあるのですが、実は “実録”とは“史実に忠実な実際の記録”という意味ではなく、“多少史実も取り入れた”という程度の意味で大半がフィクションなのです。
鹿児島市からフェリーで3時間半の鹿児島県三島村の硫黄島(人口120人)が、俊寛が流された鬼界が島だと言われており、平成8年に18代目中村勘三郎丈(当時勘九郎)が、まさに俊寛が亡くなったこの島で歌舞伎の“俊寛”を演じて大層話題になりました。建築物としての舞台はありませんから、舞台は自然の岩場や浜辺です。リアリティ抜群ですね。映像にも残されているそうですが、残念ながら私は見ていません。尚有王によって俊寛が荼毘に付された場所には“俊寛堂”という小さなお堂が立てられて、島の観光名所の一つになっているということです。
800年余りの時を超えて自分がカッコいいヒーローとして描かれている歌舞伎“俊寛”を観て、果たしてあの世の俊寛はなんと感じたでしょうか? きっと苦笑い、いや霊でさえも恥ずかしくて消え入りたい(?)思いだったかもしれませんが、俊寛に対する最高の供養だったに違いありません。俊寛の(名前不詳の)娘も有王もきっと18代目中村勘三郎に心から感謝したことでしょう。
もって瞑すべし 合掌。