令和21月の観劇始めは三越劇場での劇団新派公演「明日の幸福」でした。このお芝居は戦後9年しかたっていない昭和29年に明治座で初演されたもので新憲法で男女同権を謳ってはいたものの戦前の男尊女卑の傾向が色濃く残る時代に、大物政治家のお祖父さん夫婦と裁判所判事の息子夫婦とサラリーマンの孫の新婚夫婦の、今となっては珍しい三世代同居家族のホームコメディです。

粗筋は大物政治家で次の組閣で大臣に起用されることが決まったと告げられた絶対的家父長の松崎寿一郎から家宝の馬の埴輪を御礼に贈るから蔵から出してくれと言われた姑(息子の嫁)波野久里子扮する松崎恵子が、うっかり箱を落としてしまい寿一郎が命から二番目にと大切にしている埴輪の馬の足が折れていることを見て愕然とします。そっと箱に埴輪と折れた足を入れなおして元の蔵に戻します。その後で孫の嫁富美子がこの箱を蔵から出した時にまた箱を落としてしまい馬の足がとれていることに気が付いて仰天します。恵子と同じようにそっと箱にしまって元の蔵に戻します。そして誰にも知られないように恵子も富美子も何とか修理できないものかと奔走しますが、うまくいかないうちにとうとう埴輪の足がとれたことが寿一郎の知れるところとなります。それぞれ自分が壊したと思っている恵子と富美子は見るも哀れに寿一郎に謝りますが、ところがこの埴輪の馬の足を折った真犯人は実は寿一郎の連れ合いの大姑水谷八重子扮する淑子だったのです。松崎家の三人の嫁がみんな密かに修理しようとしたのですがうまくゆかず、露見までの生きた心地がしない様子がコミカルに描かれています。

私は今から25年前の平成7年に新橋演舞場で同じ新派公演でこの「明日の幸福」を見ています。その時の出演俳優は菅原謙二(平成11年没)、安井昌二(平成16年没)、英太郎(平成18年没)、花柳武始(平成15年没)らの新派幹部でそれぞれ持ち味をいかんなく発揮、石井ふく子の好演出とも相俟って笑いと涙のとってもいい作品に仕上がっていたので、今回は私の東京在住の娘と一緒に観劇したのです。娘が「素晴らしかったー!」と言ってくれることを期待しながら。ところが粗筋は当然同じなのですが、最初からさっぱり面白く感じないのです。終演後に娘からも「今まで見せてもらったうちで一番つまらない。」と言われてしまいましたが返す言葉がありません。同じお芝居なのにこれほども印象が違うものかとビックリする思いでした。

今回大姑を演じた水谷八重子は昭和14年生まれの80歳でセリフも(慌てて喋るべきところなのに)ゆっくり、動作も緩慢で埴輪を壊してしまったことのオロオロ感があまり伝わってこないのです。平成7年公演時の大姑淑子役は当時新派唯一の女形英(はなぶさ)太郎でしたが、コミカルな役が上手な英太郎がそのオロオロ感をテンポよく演じて観客の爆笑を買っていたのです。またそのときの大物政治家松崎寿一郎役は菅原謙二でしたが、二枚目俳優ながら三枚目的な演技も秀逸で大臣に内定したというのを告げられた際に飛び跳ねるほど嬉しいのを押し殺して「まだわからんよ。」と周囲には余裕を見せながら、部屋に誰もいなくなるや両手を上げ顔を百面相のようにして嬉しがる一瞬に観客は大爆笑でした。シリアスな演技のイメージが強い人気俳優菅原謙二のあのようなコミカルな一瞬を私が見たのはあの時きりでしたので強く印象に残っています。しかし今回の寿一郎役の田口守は新派のベテランながらこの演技がうまくいきませんでした。大臣内定の喜びの一瞬が大爆笑とはいかなかったのです。田口守はコミカルな役が多く(顔もどちらかと言うとコメディアンっぽいと言ったら言い過ぎか)そのような俳優がコミカルな一瞬を表現するのはやはりインパクトが薄いのかもしれません。

三世代同居という当時としては珍しくなかった家族形態に係るドタバタや確執も芝居のシーンとしてあるにはあったのですが、経験のない私の娘はそれも理解を超えたもののようでした。もう少し三世代同居の良さと大変さを表現して観客にそのイメージを伝えるシーンを多くすべきかと思いました。

それからこの「明日の幸福」は昭和30年ごろの舞台設定なのですが、その時代背景がうまく観客側に伝わってきません。平成生まれの娘はいつの時代なのか理解があまりできなかったようです。前回平成7年の公演当時はまだ昭和の残像があまり色褪せることなく残っていたので気が付かなかったのかもしれませんが、今はもうそうはいかないようです。

確かに三越劇場514席収容の観客の多くは年配者でその当時のことは頭に入っているのでしょうが、やはり昭和30年前後はこういう生活をしてこういうことがあってなどという説明なりシーンなりを舞台に入れ込んで観客の理解の助けになるような(今となっては)レトロな雰囲気を醸し出す工夫が必要だったように思います。(なんたって今からもう65年も前の時代設定ですから。)

明治時代に歌舞伎とは異なる新たな現代劇として発達した新派は当代の庶民の哀歓を描いた作品が多いのですが、令和の御代に明治・大正・昭和の時代設定で、何故ここで殺すんだろう? 何故ここで死ぬんだろう? 何故ここで泣くんだろう? 何故ここで身を引くんだろう? などなど年配者には受け入れられても若い人には理解しがたいストーリーが多く見受けられます。(カビの生えたようなと言ったら言い過ぎか。)

私はそのようなストーリーでいいと思うのですが、劇団新派はもう少しそこに至る過程を丁寧に観客にも分かりやすい表現や演技で伝える工夫が必要だと今回のお芝居を見て感じました。(エラソーですいません。)